『たのもしな 仏は人に みえ寺の 帳を垂れぬ 誓思へば』
一条 兼良(いちじょう かねよし/かねら)という方がおられました。
この方は室町から戦国時代初期にかけてのお公家さんで、応仁の乱の1467年にちょうど関白という地位にあった方です。
この乱で、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」が焼失してしまい、奈良に身を寄せました。
その後1473年に斎藤妙椿という美濃守護代の招きで、美濃の国に出かけます。
その時に書かれたのが「ふぢ河の記」という日記で、この一首は美濃の道中で美江寺に参拝した時に書かれました。
たのもしな 仏は人に みえ寺の 帳を垂れぬ 誓思へば
(美江寺の本尊は誰にでもたやすく見られるが、帳も垂れないで衆生に近づいて救済しようという誓願は頼もしいことだ)
— 美江寺と言う寺は、鏡嶋から五十里離れれているという。
本尊は十一面観音だが、帳のなかに隠れてなどおらず、人前に立って拝まれておられる。
ご利益は多大だと言う。往き来の旅に参詣して拝んだ。由来などを聞く暇はなかった。
という内容の日記が書かれています。
その頃の美濃の国は、まだ京都の騒乱の影響はあまりなく、穏やかだったようです。
当時は、川手というところが中心で、川手城があり、大きな神社やお寺もあったようです。
また、応仁の乱で都から逃げ延びた公家さんたちが移り住み都の文化が栄えたといわれています。
その後、守護代斎藤妙椿が亡くなると、その後を継ぐ兄弟の争いが始まり、下剋上へと進んでいきます。
この時の美江寺は、現在の瑞穂市にありました。
この後、80年近く過ぎた1550年ごろに、斎藤道三の手によって現在の岐阜市に移されることになります。
