御開帳は4月18日

斎藤義龍 禁制

  • 2026年2月17日
  • 2026年3月5日
  • 歴史

斎藤義龍は父道三を討って政権を奪った。その直前に出した禁制

美江寺
一、甲乙人等執宿の事、附たり軍勢執陣の事
一、寺領・祠堂物等の煩い、并びに先例を破る寺法の事
一、寺領・坊領売買の地、諸寄進、并びに新堂地・坊地の年貢、山林寄進の上に及び違乱
の事
一、諸役免許の処、事を左右に寄せ、寺家衆に無謂の子細を申し懸くの事
一、国中徳政法式の儀に付いて、当寺中を惣並に混ずべきの旨を申し族するの事
右条々、違犯の輩においては、速やかに罪科に処すべきの状件の如し。
弘治元年十二月〇日
范可(斎藤義龍)花押


美江寺において、次の行為を禁ずる。
・人や軍勢の宿泊・駐屯
・寺領や祠堂物への干渉、寺法破り
・寺領や坊領の売買、寄進地、新堂地や坊地の年貢、山林寄進をめぐる争い
・諸役免除に対する言いがかり
・徳政令を理由に寺を一般と同様に扱うべきとする主張
以上を禁じる。
違反者は速やかに処罰する。

弘治元年(1555)、斎藤義龍は父道三の禁制を継承し、美江寺を保護した。寺領売買や寄
進地争論に加え、新堂地や山林寄進に関わる違乱まで具体的に禁じる。戦国政権が寺院秩
序を維持しようとしたことがわかる。


斎藤義龍 禁制
斎藤義龍 禁制

『信長公記』によれば、義龍は道三討伐後に「范可はんか」と名乗ったという。
同書では范可とは昔の中国で父の頸を切ってとされた人物であり、義龍は自分の境遇と重ねこの名前を使うようになったとする。
ただし、「范可」にまつわる故事の実在は確認されていない[40]
また、義龍が「范可」を名乗るのは、実際には道三を殺す以前からである。「美江寺文書」によれば弘治元年(1555年)12月、「范可」名で同寺に禁制を出している[41][42]
これにより、義龍は道三の首実検をしてから自分の行ないを悔やみ、罪障消滅のために「范可」と名乗ったとする太田牛一の説明は誤りであって、道三と戦う決意をした時には「范可」を名乗っていたことが証明されている
ー 出展 ウィキペディア

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