元浜町 庚申堂
斎藤家建立のお寺跡
1560年(永禄3年)斉藤義龍が伝燈護国寺を、この地に建立しました。
同年の「別伝の乱」により、寺は破却となりましたが、お堂だけは残されることになりました。その後の延宝年間(1763~1681年)に再興され、「井口山東伝寺」と称されました。
民間で庚申信仰が普及し、町の人々から「庚申堂」と呼ばれ親しまれ、現在の美濃六庚申堂に至りました。
庚申信仰
庚申堂の「庚申(こうしん)」とは暦の干支の組み合わせの60組中、57番目「庚申(かのえさる)」の日を指します。主に、この日に禁忌行事を行う事が信仰の形です。中国の道教の教えが元となり、密教や修験道、神道など日本的な信仰・思想が複雑にまじわり、独自の信仰を成していきました。
古く平安時代頃には、貴族など上流階級の人たちの間で信仰され始め、室町時代からは武士にも広まり、やがて江戸時代頃には広く民間にも信仰されるようになりました。
中国道教の守庚申
庚申信仰の元となる中国道教の守庚申での考えには「三尸(サンシ)」というムシが登場します。
人間の体には、「上尸(じょうし)」「中尸(ちゅうし)」「下尸(げし)」という蟲が棲みついているといいます。
「上尸」は、人間の頭部に棲息し、眼を暗くし、顔のシワを促進させ、白髪にしてしまいます。
「中尸」は、腸内に棲みつき、大食痛飲させ、五臓を損ない、悪夢の原因となります。
「下尸」は、足に棲み、精力を減退させ、命を奪っていきます。
この三匹の蟲が、60日に一度くる庚申の日、人が眠りにつくのを見計らって体内から抜け出し、天に上がり、天帝にその人の犯した悪行を報告しに行くと考えられていました。
天帝は、その報告を聞き、悪行の度合いによってその人の寿命を縮めてしまいます。
この為、庚申の日には、三尸が体内から抜け出さないように、身を慎みながら徹夜をして過ごす信仰が生まれました。
道教の天帝は、日本では仏教の帝釈天と同一視されています。
本尊は青面金剛像
守護神帝釈天の使者とされる青面金剛が、本尊として祀られています。青面金剛は、病気除去、四魔降伏(しまごうぶく)などに霊験があるといわれます。
青面金剛の足元には、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿がいます。庚申塔や青面金剛図には、よく三猿が一緒に描かれていますが、なぜ三猿なのかといえば諸説あるようです。
「庚申(かのえさる)」の申(さる)にかけたもの、山王信仰の山王権現の使者が猿であることから申(さる)を連想させたというもの、また三猿の起源が古くゾロアスター教、ヒンズー教の中にも認められる為、仏教や密教の伝来と共に渡来した教えや儒教の道徳的観念からの流れなど、確たる説は定かではないようですが、庚申信仰自体が様々な思想が混じり合った信仰ですので、人々に幅広く解釈され、受け入れらていったものと思われます。
また、告げ口をする三尸(サンシ)に対抗する象徴として、罪を報告させないように「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿を置いたようにも考えられます。
さらに、神道の流れも組み入り、猿田彦命も祀られています。

庚申講・庚申待
守庚申にあるように、三尸が体内から抜け出して天帝に悪行を告げ口されないために、眠らずに慎み深く庚申の日を過ごすことを「庚申待(こうしんまち)」といいます。しかし、長い信仰の歴史の中で、「慎み深く」が簡略化され、夜中起きていることが重視されるようになり、人々は集まって酒宴などをひらき会食や談笑をして夜を過ごしていました。これに集まる「講」というグループができ、「庚申講(こうしんこう)」と呼ばれました。通信手段も乏しい時代には、皆が寄り合い様々な情報の交換をする貴重な機会であったと思われます。
庚申参り
元浜町庚申堂では、庚申の日に美江寺住職がお経をあげています。ぜひ、足をお運びいただきお参りください。
庚申の日は次の通りです。
| 平成24年 | |
| 初庚申 | 2月29日 |
| 二庚申 | 4月29日 |
| 三庚申 | 6月28日 |
| 四庚申 | 8月27日 |
| 五庚申 | 8月27日 |
| 六庚申 | 10月26日 |
| 納庚申 | 12月25日 |
所在地
庚申堂は、通称「川原町」という長良橋南詰の鵜飼観覧船のりばから西へ続く、格子戸のある古い街並みの中にあります。
住所:岐阜県岐阜市元浜町13
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